その名称こそ〝子ども庁〟に変わったとしても、その方向性に未来を感じていた。
ところが、昨年12月、突如として名称が〝子ども家庭庁〟に変更になったと発表され、そこに〝家庭〟が入ったことに愕然とした。(2021年12月号④コラム参照)
なぜなら、家庭は子どもの安全基地ではない現実があるからだ。ネグレクト・DV・アダルトチルドレン・ヤングケアラー・教育虐待・母子依存等々、家庭をベースにした病理は枚挙にいとまがない。家庭が病理の巣でもあるのだ。
子どもに一番必要なのは家庭に限らず愛着関係が得られる居場所である。子どもには愛情を受けて生きる権利がある。それを実現するための〝子ども庁〟であったはずだ。
おそらく保守的な家庭像を復活させようとする勢力によって名称が変更されてしまったのだろうと予想はしていたが、ここに来て旧統一教会と政治家の関係の深さが注目されてきている。
〝子ども庁〟に家庭がくっついてきた背景も、旧統一教会に支援される保守系政治家の多さを知れば、そうだったのかと合点がいく。
旧統一教会の求める家庭像とは、三世代同居で、子育ても介護も両親を中心に家庭が力を合わせて行うべきもので、外部へ頼るべきではないという徹底した自己責任論である。
できるだけお金を使いたくない政府・地方自治体にとっては、誠にありがたい応援団であると言えよう。
この自己責任論によって、どれだけの若者が奨学金という名の借金に苦しめられていることか。
この借金のために、わが国の少なくない若者が結婚を、そして子どもを生むことを諦め、少子化に拍車をかけているという現実をこの勢力の人たちは無視しているのだ。家庭どころか、そこへたどり着くことさえ難しいというのに。
そしてその家庭も、離婚家庭、再婚家庭、ステップファミリー、一人親家庭、同性婚家庭、里親家庭等々、どんどん多様化しており、単一のモデルに当てはめることなどできはしない。
子育ては社会の全ての資源を挙げて行うべきであり、家庭にのみ押しつけてはならない。それゆえの〝子ども庁〟であったはずなのに、旧統一教会が信奉する復古主義的家庭観を復活させようとする意図が入っているとするならば、それは国を危うくするものである。
子どもにとって、家庭は絶対的な存在ではない。親も絶対ではない。自分を精神的・肉体的に支えてくれる人と安心できる場所こそが何よりも必要である。
どうか初心に戻って、子どものニーズにきめ細かくスピーディーに応える〝子ども庁〟であることを願うばかりである。
- Posted by 2022年08月29日 (月) |
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