子どもたちが安心できる居場所を失い漂流し始めているとの危機感を強く感じたのは、30年以上も前になる。
家庭も学校も息の詰まる場所へと変貌をとげ始めていた頃からだ。
家庭はいつの間にか学歴・学力信仰に支配され、急速に学校化していた。母親は教師以上に教師化し、ひたすら子どもたちに努力を要求し、豊かな人間力ではなく学力が君臨した。
学校は日常生活の隅々まで内申点化され、評価主義と競争で子どもたちは身動きが取れなくなり、何も要求されずただあるがままの自分でいることを許される居場所はどこにも見当たらなくなってしまった。
息が詰まって思うように呼吸ができない状態は、酸素吸入器を必要とするコロナ患者と同じである。
そして自分の命を守るために、息ができる居場所を求めて漂い出した子どもたちに対して、混乱した大人たちは子どもたちの対応に困り果てて、力ずくで押さえ続けてみたり、スパルタ施設や病院に押し込めたり、非行のレッテルを貼ってさらし者にしたり、社会悪として引きこもりへと追い込んでいった。
今、やっと多様性が叫ばれるようになり、子どもに合った学びの場や居場所が容認されるようになってきたのは喜ばしい限りだが、コロナ禍によって学校のスタイルが根底から変わろうとしている時、学校外の子どもたちの受け皿はまだまだ圧倒的に不足している。
そんな中で、知人やかつての仲間のコロナ禍にめげない奮闘ぶりに元気をもらっている。
神奈川では中学校の廃校を利用した地域と共同での体験型の居場所、群馬では農作業を通してエネルギーの再生を支援する農業法人、千葉では離婚家庭の子どもたちの居場所として「みちくさハウス」という施設が生まれた。九州では森の中で動物と共に生きるフリースクールが5年の歩みを経て地域の大きな信頼を集めている。
私が通信制高校の立ち上げに関わった時に、一緒に知恵を絞って居場所作りに取り組んだ仲間たちは、その時の体験を他の通信制高校やサポート校、フリースクール、放課後デイサービス、不登校の親の会などの立ち上げに生かしている。
共通しているのは「安心できる居場所作り」であり、「何よりも子どもたちの笑顔のために」ということである。
子どもたちだけでなく、孤立化を強める母親たちも老齢者たちもまた、安心して集えるドラえもんの秘密基地を必要としている。
コロナが収束したら、私もまた小さな居場所作りに知恵を絞りたい。
それまではささやかながらzoomでのカウンセリングを通してドラえもんの役割を果たすつもりだ。
- Posted by 2021年09月25日 (土) |
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