私は幼い頃から集団で何かをするということが苦手で、集団というものが好きになれなかった。
けんかも良くしたが、集団でのけんかに参加したことはない。必ず一対一であった。
ゆえに、ある時、上級生に集団でリンチまがいの暴行を受けた時には、その卑怯さを許すことができず、その中心人物の家に一人で押しかけ、その家人の見ている前で、一対一のけんかを要求した事がある。
集団での行動は、個人の責任を曖昧にしたり、不和雷同して行動がエスカレートするという危うさを内包している。
幼いなりに私には、その事がどうしても許せなかったのだ。
私は、永いこと中学教師として、生活指導の前面に立ち、1970年代から1980年代にかけては、荒れる子どもたちの真っただ中にいた。
特に番長グループと呼ばれる猛者たちの対応には、随分と手を焼いた。
「自分から手を出すな!」
「他の学校同士の抗争に首を突っ込むな!」
「けんかをするなら一人でやれ!」
と、口をすっぱくして説いたが、番長が思慮が浅かったりするとそうはいかない。
隣接の地区との抗争に駆り出されて、調子に乗って先陣を切ったために、その後は事あるごとに駆り出されただけでなく、学校全体が報復活動に怯え続けなければならなくなったのだ。
そのストレスは、私の身体を蝕むことにもつながった。
今、元気のあるうちにと思って、屋根裏に保管してあった、過去40年間の資料や記録を処分しているのだが、あの頃の嵐のような日々が、今の社会の動きとダブってしまって、懐かしさよりも、胸が苦しくなってしまった。
安倍政権の、憲法解釈の変更による集団的自衛権行使を急ぐ姿を見ていると、政府の中心にいる人たちは、けんかをしたことも、殴られて血を流したこともないのではないかと思われてならない。
人に手を出して、自分だけは無傷ということはないのだ。
必ず、自分も反撃を受け、手ひどい痛みが伴うことを知る。
そんな体験があれば、その体験から学び、もっと思慮深くなるはずだからである。
中東のサマワに、PKO活動で派遣された自衛隊員には、その後、20名もの自殺者が出たといわれている。今後は、それどころではない。
現地で死者が出るだけでなく、国内にミサイルが撃ち込まれることも覚悟しなければならない。
実際、イラク戦争に参加したスペインでは、10か所で起きた爆破テロにより191人が亡くなったという。
原発を抱える日本にとって絶対負ってはならないリスクだ。
安倍さんも石破さんも、自分たちは絶対安全な場所にいられて、ただボタンを押せばいいだけの戦争ゲームに参加するような感覚でいるのではないだろうか。
余りにも幼く、驚くほどの軽さである。
とてもこの人たちに生命を預ける訳にはいかない。
安倍さん、石破さんが、あの頃の番長たちの姿に重なって、危なっかしくって仕方がない。
集団という言葉には、うさん臭さが付きまとう。
私は、集団という言葉がますます嫌いになった。
- Posted by 2014年06月30日 (月) |
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