岩手の中学二年生男子の自殺事件は、なんともやり切れなくて辛い。
これはもう、学校犯罪とも呼ぶべきもので、学校が子供たちの生命と安全を守る組織として、機能不全を引き起こしていることを示している。学校の自殺、学校の死である。
今までのいじめを苦にした自殺の中で、これ程繰り返し、明確なSOSを学校側に出し続けた例があっただろうか。その心の叫びを正面から受け止めることのできない学校に、どんな存在価値があるというのか。元中学校教師の一人として、怒りと悲しみに身体がふるえる。
いじめは、今後も増え続ける。
それは子供たちを取り巻く環境が、大人の都合によって劣化の一途をたどっているからだ。
子どもたちは、“五つの学校”によって、ストレスを与えられ続けており、それは限界に達している。
<五つの学校とは>
① 学力テストの導入によって、ますます学力重視が強まる学校
② 学校の下請け機関として、子どもを勉強へと追い立てる家庭
③ 休日もない勝利至上主義の部活動
④ いやでも通わざるを得ない学習塾
⑤ 食事中・夜中でも逃げられないラインの世界
この過酷な五つの学校で、成長期に最も必要な睡眠を削られ、大人たちが繰り出す過大要求や期待に応えるべく、神経をすり減らしているのだ。
子どもたちの多くが、“うつ”一歩手前の“慢性疲労症候群”状態に陥っている。
心身のバランスが崩れた過緊張状態では、冷静な思考など望むべくもない。
蓄積するストレスを周囲にぶつけ、身近な仲間を犠牲にすることで、本能的に自分が壊れることを防ごうとするのだ。防衛機制の一種である。
思春期の子どもたちは、それだけ追い詰められているのが現実であり、子どもたちを取り巻く環境が根本的に変わらない限り、今後もいじめは多発すると覚悟しなければならない。
しかし、岩手の事例でも明らかなように、アンテナの感度の悪い危機管理能力の欠如した学校のあり方では、子どもたちの安全は脅かされ続けるであろう。
私は、保育園の関係者とも接する機会が多いが、今保育園は、園児に対する保育中心的な発想から、家庭を丸ごと支援する、子ども・家庭支援センターとしての役割へとウィングを広げている。
苦戦する子どもたちの背後には、苦戦する家族の存在があり、子どもは家族を代表して、問題行動というSOSを発することが多いからだ。
新しい役割は確かに負担の大きいものだが、個人任せではなく、チームとして支援体制を構築する事で大きな成果を上げている。
これからは学校も、子ども・家庭支援センターとしての役割を強く求められるであろう。
“教育は学校で”“しつけは家庭で”という役割分担を唱えていれば済んだ牧歌的時代ではなくなったのだ。
家庭に力量以上の“孤育て”を押し付けてしまったために、機能不全に陥った家庭が続出している。
子どもにとって、家庭は安心できる居場所とは言えなくなってしまっているのだ。
気になる子ども、苦戦している子どもには、一過性の指導ではなく、継続的で組織的なチーム支援が必要となる。
担任のみの個人的な指導から、チームとしての支援という発想の転換が求められているのだ。
校内だけで片付きそうな事案については、校長・生活指導主任・特別支援コーディネーター・養護教諭・スクールカウンセラーがメンバーとなる校内委員会で作戦を練ればよい。
しかし、校外にまたがる事案については、校内委員会のメンバーに、子ども・家庭支援センター・児童民生児童委員・教育相談所・NPO法人などが加わる校外委員会がいつでも開かれるシステムが必要である。
この校内・校外の二つの組織が設置され、フルに機能することなしには、子どもたちの生命と安全は守れない。
教師一人一人のアンテナの感度を鍛ええるとともに、情報を共有し合い、問題をチームとして解決していくという新しい学校カルチャーを想像することは、学校の義務である。
彼の死を無駄にしないために、今、学校の再生は待ったなしである。
- Posted by 2018年07月27日 (金) |
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