大相撲の横綱の一人である日馬富士関が引退を表明した。
当然のことであり、同情の余地はない。彼は記者会見で、『後輩の態度が悪かったので、ちゃんとしつけようとしたのであり、先輩として当たり前の行動だ。その後本人からも謝罪がされ、和解したのに、これがこんな大騒動になるとは思いもよらなかった』と恨み節とも自己正当化ともとれる発言をしている。
ここに相撲界の時代遅れの体質がある。相撲界には、“むりヘンにげんこつ”という言葉があり、かわいがりと称して、暴力まがいの指導がいまだにまかり通っている。社会もそれを、あそこは特殊な世界だからと、この世界のローカルルールを黙認していることも、相撲界の暴力的体質が変わらない理由の一つであろう。
この封建的相撲界に似ているのが、学校の世界であり、とりわけ部活動の世界である。
私も中高時代、部活動に参加したが、それは先輩による陰湿ないじめと暴力の日々であった。
今ではそこまでひどくはなくとも、上級生による後輩へのしつけと称する暴力は続いているはずだ。
指導者による体罰も後を絶たない。体罰というと、しつけのためにやむを得ないというニュアンスが強まるが、どんな理由であろうと暴力でしかないのだ。受けた側には心の傷が残る。一生消えない傷になることも少なくない。私も現役教師時代、生徒に手を出したことがあるが、その時の生徒の恐怖にひきつった表情を忘れることができない。私にとっても一生癒えることのない心の傷である。
学校という閉鎖的な世界にのみ通用するローカルルールは、一日も早く一掃されるべきである。
しかし、保守的な人々の中に教師の体罰を指導の一環として許容する勢力があり、又、教師同士でもかばい合う力学が働きなかなか改善されないのが実情である。
しつけと称する体罰で一番卑劣なのは、シングルマザーの家庭に入り込み、夫という立場を手にしたり、同居という内縁関係を手にした男たちが行う、相手の連れ子に対する虐待である。死に至らしめることも少なくない。
『子どもがなつかなかった』『注意したのに態度が悪かった』『飯をこぼした』などと難癖をつけ、暴力の限りを尽くすのである。その上で必ず『しつけのつもりだった』と自己弁護するのである。
わが国のローカルルールでは、しつけという体罰に対しての寛容さがある。この寛容さがある限り、我が国のローカルルールはなくならないし、強者のしつけという暴力に、弱者はおびえ続けなければならないだろう。
たとえどんな理由をつけようとも、暴力は暴力でしかない。子どもたちのためにも、いかなる暴力も許されないというグローバルルールがわが国に広がることを願わないではいられない。
- Posted by 2017年12月07日 (木) |
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