待ちわびていた桜の季節も終わってしまい、やや桜ロスになりかけていたが、ここに来て又元気を取り戻している。
都心に出かける時は、いつも時間に余裕を持って家を出ることにしている。それは途中の家々の庭先に咲く花々と会話をするためだ。
つい先日も春の陽気に誘い出されるように家を出ると、荒々しい火山岩の石垣の間から可憐な野の花が幾種類も顔をのぞかせている家があった。赤あり、黄色あり、ピンクに紫と、どれも健気でかわいい。
「こんなところに張り付いてよく生きているねぇ。そんなに小さな身体ですごいね!」と声をかけてみる。そうすると花たちは、心なしか背を伸ばして「ここが私たちに与えられた場所だから」と見つめ返してくるように思えた。
自分たちに与えられた場所がどんなに過酷であろうと、その場所で生命力を燃焼させ花を咲かせている野の花たちに、私は深く頭を下げた。
大きな手術をした後、自分の健康にやや自信を失いかけている私に、「あなたも与えられた所でしっかり生きなさい!」と喝を入れてくれたような気がしたからだ。
今、中・高では道徳の教科化が進められ、学校ではその取扱いに頭を痛めているようだ。
何しろ道徳教育の積極的な推進者であるその元締めたる人たちが、余りにも不道徳的でお粗末だからだ。
嘘、おどし、開き直り、セクハラと、とても子どもたちには見せられない姿ばかりである。不道徳教材ならいくらでも作れるであろう。
彼らが推奨する中身のない形式的な教材よりも、こうして逆境の中で咲く野の花の方がはるかに説得力があると言えよう。
言葉であれこれ言わないが、強くしなやかな生き方をその存在で見せてくれるのだ。
〝世界に一つだけの花〟という歌が思い浮かぶ。名のある花も名もなき花も、与えられた場所で精いっぱい花をつけ生き抜いている。
子どもたちも同じだ。誰が必要で、誰は不必要ということはない。誰は生きる価値があって、誰は生きる価値がないなどということもない。この世に生まれてきた全ての命は同じように尊く、それぞれに与えられた役割があるはずだ。
私も家族支援という与えられた役割を死ぬまで果たしていきたいと思う。
- Posted by 2018年04月28日 (土) |
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