3年前の3月11日以降、政府やマスコミの発する言葉に、物書きの一人として大きな違和感を感じてきた。
最大のものが、原発事故と言う言葉である。
事故という言葉は、変わった出来事、さしさわりなどを意味し、限局された一時的なできごとを示す時に使われる。
今回のように、大規模で広範囲、そして、100年も続くようなできごとは、事故という言葉で片付けることなど、到底できることではないのだ。
ましてや、事象などと言う他人事のような言葉は、原子力村の人々の悪意以外の何ものでもない。
3年たっても、多くの人々が故郷を奪われ、そのストレスから、生命を奪われているのを見聞きするにつれ、原発再稼働を急ごうとする人々への怒りを募らせていた折に、自分の想いにピタッとはまる言葉に出会った。
それは、福島県相場市在住の詩人、若松丈太郎氏が、詩に書き続けておられる“核災”という言葉である。
福島第一原発で起きたことは、おごりたかぶった人間が生み出した人災であり、まさしく、核による災害だと言えよう。
私も今後は、核災という言葉を使わせてもらうことにした。
高濃度の放射能に汚染された土が、ビニール袋に入れられて、至るところに野積みされたままになっており、木の芽がビニール袋を突き破って、放射能が漏れだしている。
原発の高濃度汚染水が、あちこちで漏れ出し、原発そのもののトラブルも相次いでいる。
又、福島の子どもたちに甲状せんがんも増え始め、精神的な後遺症も広がり始めている。
核災は今も現在進行形なのだ。
核災を二度と引き起こさないために、原発の再稼働はあってはならない。
今、十分に電力は足りているではないか。しかし、原発を動かそうとする人たちには、どうも、もう一つの隠されたねらいがあるようだ。
原発がないと、プルトニウムを保有し続ける根拠がなくなるからだ。
プルトニウムこそが核兵器の原材料である。
核武装を夢見る好戦論者たちにとって、プルトニウムは死守すべき宝物である。
そのためには、どんな反対があろうと原発は再稼働させなければならないのだ。
原発は、核武装の為の、隠れみのであると言えようか。
自民党幹事長の石破茂氏は、「核の潜在抑止力を維持するためには、原発をやめるべきではない」とその本音を述べている。
我が国が核武装しないためには、プルトニウムを捨て去ることだ。
その為には、原発ゼロが必要だ。
それは、とりもなおさず、将来にわたって、核兵器の保有をしないということを世界に宣言するに等しいのだ。
唯一の被爆国として、原発は不要である。むろん核兵器もいらない。
何があっても二度と戦争はしないという、誇り高き理想を掲げた国づくりこそが、我が国にはよく似合う。
それこそが子孫への最大の贈り物である。
- Posted by 2014年03月31日 (月) |
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