4月23日、その訃報は突然にもたらされた。
「あなた大変よ、佐賀新聞の東京支社長の横尾さんが急逝されたそうよ」と妻から連絡を受けた時、「うそだろ、そんなことはありえない!」と大声で叫んだ程だった。
何故なら、つい10日程前に、いつもと変わらぬ佐賀弁を聞いたばかりだったからだ。
私が作詞作曲した“私にください”が、ユーチューブにアップされたことを知らせると、「すぐに取材させるから」と返事が返ってきた。
「定年で、佐賀に帰ったと思うとった」
「うんにぁ、もう1年、こっちにおっごとなったさい」
「うん、そんないば、また、近いうちに会おうか」
「うん、こっちから連絡ばすんね」
そんなやりとりを交わしたばかりの彼が、緊急入院して、わずか5日でこの世から消えてしまうなんて、どうして受け入れることができるであろうか。そのショックで私は体調を崩してしまった。
横尾哲君は、ふるさと佐賀の県立佐賀北高校の野球部の三年後輩であり、弟の同級生であった。
そんな関係もあって、15年ほど前に佐賀新聞の教育欄への連載の依頼があり、その後も10年間続いた“子どもの周辺”の執筆陣の一員に加えていただくなど、交流が深まっていった。
私が出版した本を必ず記事にしてもらうなど、随分と世話になったものである。
母校の佐賀北高が、夏の甲子園で優勝した時には、いち早く電話がかかってきた。
「先輩、1時間で写真集の最後を飾る一文を書いてくれんですか」
「あんたの頼みでも、いくらなんでも1時間じゃ無理ばい」
「無理を承知で言うとっと。朝日新聞のアサヒグラフより少しでも早う出さんば、うちんとは売れんさい。あっちの写真集が出るまでが勝負やっけん。大至急頼みます!」
何しろ、お祝い事でもあるし、今までの恩義もあるしで、無我夢中で書き、校正する暇もなく原稿を送った。
「先輩、おかげで2万部出たよ。感謝しとっ!」と連絡があった時には、母校の優勝とともに、我がことのように嬉しかったものだ。
「先輩、俺も来年退職やろが、佐賀に帰った後、何ばしゅうかにゃあと思いよったばってん、先輩のやってる家族支援カウンセリングを俺もやれたらよかねと思い始めたとよ。
資格ば取ってさい、佐賀に帰ったら、家族支援の仕事を本格的にやってみゅうかと思ったら、これからの方向が見えたような気がして、元気の出た!」
そう言って、昨年の夏、白梅大学での家族支援カウンセラー養成講座を受講し、忙しい支社長業務の合い間をぬって、すばらしい課題レポートを作成してくれた。
大きな身体を丸めながら、誰よりも熱心に受講してくれた姿が忘れられない。
彼は、日本で唯一の現役新聞記者の家族支援カウンセラーだった。
私にとって、弟のような、実に頼りになる存在だった。また、歩き始めたばかりの協会にとっても、かけがえのない人であった。
彼と一緒に、ふるさと佐賀でのさまざま活動を考えていただけに、返す返すも残念でならない。
好漢、横尾哲君、永い間ありがとう!そしてさようなら!
- Posted by 2014年04月27日 (日) |
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